がん‐4000年の歴史‐ 読了

シッダールタ ムカジー 著、田中文 訳、がん‐4000年の歴史‐ 上・下 (ハヤカワ文庫NF) 読了。

文庫本だったけど、上下巻800ページの大部の書籍で、1ヵ月弱かかってようやく読了。
うーん、すごい本だ。がんという疾患に対して人間たちがどう立ち向かったかの歴史をつづったもので、医療従事者であれば非常に興味深く読めるだろう。がんの歴史と言っても、近代以前にがんを記述した資料は少ないので、本文の内容の大半は近代以降のことだけどね。しかも半分以上20世紀以降のできごと。それは結構知ってるんで、もっと昔の知らない時代のことを読みたかったけど、しょうがないか。

欧米の文学作品らしいもったいぶった修辞がとても多く、いつもは科学論文の淡々とした調子の文章で読みなれているテーマだけに、ちょっと鼻につくかな。言い回しがくどい。だがそんなことが欠点と思えなくなるくらい、俯瞰的な視点によるストーリー性がすごいわ。人間の歴史は事実を時系列に並べただけのものではない。そこには、そのような経緯が形作られた理由があり、その理由には人間の思いが練りこまれているのである。だから歴史は「物語」なのだと思う。

がんとの闘いも科学のあゆみのひとつであり、その歴史にはストーリーがある。昨今話題のオプジーボは、唐突に出てきたわけではない。他の無数の試行錯誤、知識を紡ぎあげた歴史の上に現れた産物なのである。もちろん科学者はそのことを知っている。『科学者は歴史学者と同じくらい熱心に歴史を研究する』(本書より)。先行研究を熟知することは研究者として当然の心構えなのだから。
だが、それでも自分の研究がどのような歴史に立脚しているかを深く認識している人は必ずしも多くあるまい。いわんや、サイエンスではなく人間社会という側面までを包括した歴史を認識している研究者は。だからこそ、学者と社会との間には、しばしば考え方の深刻な相違が指摘されるのである。

本書が世に出て絶賛されるという事実がそれを物語っている。
昔のがん治療はどうだったのか、がんに侵された昔の患者はどのような運命に置かれたのか、そして社会はそれをどう取り巻いたか。そうしたことに我々が無知であるがゆえに、本書によって目を開かれたように感じるのであろう。

自分は薬剤師なので、本文中に出てくる用語・薬品・人名にはよく知っているものが多く、それらは初め固有名詞を伏せられていても、読み進めている間に、「あ、あれのことじゃない!?」と推理ができ、それが的中することがしばしばあった。例えばメトトレキセートであったりグリベックであったり、Her2であったりHIVであったり、ピロリのウォレンとマーシャルだったり・・・。わかるのだ。来るぞ、来るぞ・・・てな感じで。そして、やがてそれが本文中で明かされ、小説でも読むかのように前後関係がつながっていくのは、何とも快感であった。

自分も、科学史としては知っていても、これらが登場した当時の時代背景や社会と重ね合わせて理解するという姿勢は、乏しかったと言わざるを得ない。
印象に残ったことはたくさんある。
戦後のアメリカで勃興したラスカライツの熱狂は、正義を声高に唱えることの意味を物語っているように思える。国家が全力を投入すればがんという絶対悪との戦いに勝てる、そうした絶対に正しいように見える信念は、皮肉にもがん戦争のとるべき道を見誤らせ、現実にはこれだけではがんを撲滅することができず、あまつさえ袋小路に陥った。この構図は何やら、利潤を追求することを正義として邁進した結果、悲劇を招いたサブプライムローンの事件を思い出させる。あるいはイデオロギーの正義を国是として迷宮に入り込んだベトナム戦争と比肩できまいか。
また、社会に害を及ぼしている事実を内心自覚(!)しながら、詭弁を弄し社会を偽り続けたたばこ産業の、おぞましいまでの自己中心的な態度。これの類例は残存農薬問題、温室ガス規制への抵抗、そして昨今の銃規制の問題・・・と、挙げだすときりがない。その意味で、たばこ産業を衰退に追いやった歴史は何か象徴的ですらあると感じる。また、これらの問題には相似が見られる一方で、独特の側面もあることが、さらに興味深い。どこまでも思索を深めることができそうだ。

とにかく面白かった。がんは敵だと思っていたら、実は進化した身内だった、というSF映画みたいなストーリー展開は、あながち的外れではない。がんを乗り越えるということは、我々自身を乗り越えるということなのかもしれない。そんな哲学的、ある意味中二病的感想を抱けるのも楽しいね。





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