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死にいたる病 読後感想

セーレン・キルケゴール著、死にいたる病(ちくま学術文庫)読了。

かなり読むのに骨が折れたが、よく読めばわかる。
キルケゴールは19世紀の哲学者・キリスト教論述家で、実存主義哲学の先駆けともされる人物である。
本書は絶望すること(通常の意味の『絶望』とは異なる)と罪に関する、非常に深遠な考察が主な内容。
ただ、例え話は易しい。グサッと来るものが多い。純粋な生き方を追求して、逃げ道を許さないくらい厳しく自己を見つめているので、胸が痛くなる。善いことをするのは善を行う自分に満足するからだとか、そんなの序の口。

こういう自己の妥協を排する禁欲的な考えは、キリスト教世界以外にもみられる。セネカやマルクス・アウレリウス(ストア派、ストイックの語源)はキリスト教徒ではなかった。武士道だってキリスト教徒じゃない。
したがって、このように厳しい自問によって道理を考察する哲学は、キリスト教であるかによらず、普遍的なテーマであるはずだ。
しかし、罪の概念となるとキリスト教は独特で、キルケゴールによれば、罪に対する考え方次第で、神に対して真に敬虔で謙虚であるかが異なることになる。
これを自覚し、神に直面することを認識できるのは、キリスト者だけなのである・・・と、キルケゴールはいう。

キリスト教は他のすべての宗教と異なる(優越すると言いたいんだろ、といったら誤解か)という考え方に、反感を覚える向きは多いと思われる(キルケゴールのアイデンティティだからしょうがないけど)。
そして、『異教の哲学者はこういうだろう、だがやはりそれではだめなのだ』ということまで先回りしてダメ出しされると、なおさら拒絶したくなる。
まぁそんな浅薄ないい方はしていないけどね(^^;;)

だがこうして、神の無限の愛について説いているにもかかわらず、反目が産まれるという皮肉が生じる。
キリスト教はこの皮肉には決して答えない。
なぜなら、これを解決するのは理屈ではなく信仰だから、というのがだいたいのキリスト教の立場だからだ。
哲学や論理で神を理解しようとする姿勢を、キルケゴールは思弁と呼んで否定する。そうではなく、信じること。それが神の前で素直になり、神と直面することなのだ(と言ってるんだとおもうんだけど・・・)。

今まで自分がキリスト教に納得できていない理由はここにあるのかもしれない。
理性で神を理解しようとしても、それで理解できたら神じゃないわな。
だから納得しようという取り組みそのものが神から遠ざかっていることになるわけだ。キルケゴール流に言うと。

そういう自家中毒めいたものに気付いてしまったから、もうこれ以上は進めなくなってしまった。
神を信じるか、異教のままでいるか。キリスト教は、正しさ・善を追求した結果、こういう究極的な二者選択しかなくなって、不寛容な態度を容認する素地ができていったのかもしれない。

信じろ、それだけだ。
ではそれができないヤツはどうなるのか?
キリスト教の歴史では、それは異教徒であり、人間扱いしなくてよい、という理屈になった。少なくともなりがちであった。

キリスト教の教義に忠実な者と、高徳の異教の哲学者と、どっちが愛に近いんだ?

キルケゴールの哲学からはちょっと脱線するが、そんなことも思った。


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