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観応の擾乱 読了

亀田俊和 著、観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い(中公新書)読了。

観応の擾乱とは、室町幕府草創期の内乱である。
南北朝までは一般に広く知られているが、その後の歴史についてはあまり知られていない。以前南北朝合体後の南朝(その名も後南朝)の本を読んだこともあり、この辺のあまり良くわからない時代に興味がある。本書は2017年7月刊行の新刊である。非常に面白かった。
筆者の主張する訴訟制度の変化についての考え方、理非究明型から一方的裁許への変化は、現代の観点からすると一見退化したように見えるが、実は現実的な方にかじを切った『進化』だったのではないかとする見解が面白い(画期的かどうかには異論もあるようだが・・・)。
我々は現代の視点から歴史的経緯を解釈しがちで、しかも進歩主義的な偏向がある。

一方的裁許は訴えてきた者の訴えをそのまま通すという裁許の方法、理非究明型裁許とは告訴側と被告側の両方の意見を聞き、是々非々で沙汰を下すというもの。これだけ見ると、理非究明型(鎌倉幕府式)から一方的裁許(室町幕府式)への転換は制度的に退化したように見えるが、理非究明型は官僚機構や強制力など、統治がうまく動いていないと能率的に機能しない。このため、鎌倉幕府が倒れた後の南北朝の混乱期は訴訟が滞り、武士の不満がうっ積した。そこで、理非を究明すべき案件とそうでない案件を選別し、一方的裁許で良いものはそれで扱うという方式が占めるウェイトが大きくなっていったという。
ここまでわかれば、退化したように見えるのは表面的で、むしろ、ある意味適切に進歩したとさえ言えないだろうか。

時代に逆行するように見える制度も、実はそうではなく、その時々の合理性に従って採用されているのかもしれない。
そういえば、民主主義が機能不全に陥っているとき、強いリーダーシップを発揮するリーダーが現れると、その独裁によって社会がうまく回る場合がある。いわゆる正しい独裁というやつ。民主主義は王政や独裁より進歩した制度なのだと、無意識に思っている節があるが、本質はそこではないのではないか。

いろいろと考えさせられた。




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物語 ポーランドの歴史  読了

渡辺克義 著、物語 ポーランドの歴史 - 東欧の「大国」の苦難と再生 (中公新書) 読了。

期待したほど面白くなかったな~~。

以前読んだ「戦争を始めるのは誰か」という歴史修正主義の本にあった、、第二次大戦前夜のポーランド回廊をめぐる同国首脳のヒトラーとの対応は不適切だったという見解が印象に残っていたので、その辺を注意してみたんだけど、やっぱり立場が違うと評価も違うんだろうね。
結局当時のポーランドの身の振り方は、一般的にはどう評価されてるんだろ。
17~18世紀くらいの国家間戦争では結構勝ってたんだね。ロシア(ソ連)とドイツに蹂躙されてるイメージしかなくて。
でも、失敗から学ぶポーランド人という自己評価がポーランドにはあるらしく、ポーランド人自身も、自分たちのことを大国間に挟まれた悲劇の民族とばかりは考えてないのかもな。

あと、近代以前の中世の記述が少なくて、ちょっと残念。10世紀くらいから歴史に姿を現すんだけど、もしかしてこのころの記録自体が乏しいのかな。





失楽園 読了

ミルトン 著、失楽園(上・下) 岩波文庫 読了。

この作品は興味があった。
17世紀のイギリス、清教徒革命の頃のキリスト教倫理の結晶といってもいいのではないだろうか。

なぜ神はこの世に悪がはびこるのを放置しているのか、黙して語らないのか。これはキリスト教のことを聞きかじったことのある人間なら誰しも感じる疑問だと思うのだが、本書においてはその矛盾に対して一つの解決が示されている。

人間や悪魔(堕落した天使)には、自由意思・理性が持たされており、堕落は本人が理性に基づいて選択したものであるという考え方がある。
無論神は、人間や天使を強制的に自らに服従させることもできるが、それではできて当然で別に貴くも何ともない。
むしろ、過ちを犯す余地を持っている者(自由意思を持つもの)が、己の選択によって(あえて)神に従う、ということが貴いのである。なるほど!ここだけはすごく説得力がある。

この手の疑問は、さかのぼっていくといつかは、神はいるのか?という問いに行きつく。神がいるなら、なぜこの世の悪を放置しているのか、みたいな感じで。
したがって、なぜ神はこの世の悪を放置しているのかといった下流の疑問に答えられないとすぐに、『よって、神など存在しない』という上流の疑問に否定的な結論が下されやすい。
本書の場合、少なくとも「なぜ神はこの世の悪を放置しているのか」といったことには答えられる。


神は存在するという前提で、何とかうまく説明しようとするとこれしかないかも。それでも、神の掟に逆らうとなぜ罰せられなくてはならないのか、という根源的な命題は残るが。
なぜ人を殺してはいけないのか、という疑問を、神様抜きで回答しようとすると、それを許すと社会の相互信頼を損ない、社会の構成員全員に不利益となるから、という説明ができる。
しかし、なぜ神に従わなくてはならないのか、という疑問に対しては、この論法は成り立たない。人間が神に従わなくとも、神に不利益になるわけではないのだから。

したがって、この問題は今のところ、これ以上遡及できない原点と考えるしかなく、いわば公理と言わざるを得ない。神に従わなくてはならないという命題は問答無用、そこつっ込んじゃダメ!というわけだ。
しかしこの公理は神が存在することを前提にしているので、神の存在に懐疑的な立場にとっては、根本的に議論が食い違ってしまう。

何でこんなこと言うのかというと、神が悪を放置する理由は分かった。しかし、疫病や生まれてすぐ死んでしまう赤子のことを考えると、なぜ神はこんな運命を用意したのか、と考えざるを得ないからだ。
キリスト教/ユダヤ教の原罪論でいうと、その理由は本書にある通り、最初の人間であるアダムとイブが神の教えを守らなかったから、子孫にまで罰が及んでいるということになる。

アダムとイブは神によって理性をもって作られたのだから、彼らが罪を犯したのは彼らの理性に責任がある。
しかし生後すぐに死んでしまう子供は、当然ながら自分に責任があるわけではなく、またそれ以外にも本人には責任を負わせがたい理不尽な不幸はこの世にいくらでもある。
これらの不幸をすべてアダムらの原罪によって説明しようというのか。
確かに神は人類に恵みを与えてくれるが、一人一人の個人に対しては、あまりにも不公平で過酷ではないか。

というわけで、自分としては、原罪論にいまいち納得できないのである。




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主にヨンサンを中心に作っています。作ったり作らなかったり、はなはだ不安定な模型ライフですが(^^;;)

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