嫌われる勇気 読後感想

岸見一郎、古賀史健著、嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え、読了。
数年前にベストセラーになった自己啓発本で、時々この手の本を読む職場の同僚が貸してくれたので、読んでみた。無学にして、アドラー心理学というものはこれまで聞いたことがなかった。
雑かもしれないが、自分なりに気になったところを要約するとこんな感じ。

自己を変革したいといいながら出来ないのは、変革しないほうが都合の良い事情があり、それに阿っているからである。水は低きに流れる、と。思い当るところ多し。自覚してます。

他人に怒りをぶつけてしまうのは、その人物を支配したいという心理があるからである。他人が仲間であると考えることで、支配-従属という縦の関係ではなく、水平な関係を構築できる。
アドラー心理学では叱るという行為だけでなくほめるという行為も否定する。ほめる行為も縦の関係の一環であるし、ほめられた側は、良いことをしたという事実よりも、ほめられたということに価値を見出し、ほめられなければ良いことを積極的にはしないという論理を生む。
いや、これは極論だろう。極論のオンパレードな感がある本書だが、これを読んで素直に真に受ける人はある意味生きにくいだろうなーーー。
ほめる代わりに感謝を伝えるという提言は納得できる。自分で言うのもなんだが、自分は後輩に対してはほとんどの場合そのようにふるまっている。違うのは成果の可否の判断を求められたときくらいではないか。
また、今気づいたが、自分は姪っ子にも対してもだいたいそうである。もともとかなり小さいころから赤ちゃん言葉で話しかけなかったが、子供を一人の人間と考えて接しているつもりはあった。でも「良く出来たね~」とほめる方が適切な場面もあり、その場合はもちろんそれに従うわけである。
だが、私のほめ言葉を欲求し、ほめられなければ行動しないという短絡的な発想は、幼児にはありうることだが、成年以降にはおよそ考えられない。成人は自分自身の中にある程度の価値基準を構築しているのが普通であり、上司である私がほめなくても、やらなければならないことはやる、という判断ができるからである。この価値基準があやふやなうちは、ことに就職して間もないとか、異動して間もないとか、いわゆる右も左もわからないときは、自分の判断と行動が妥当であったと保証してやるという意味で、ほめるという行為が有用であると思われる。でなければ、やってみせ、言って聞かせてさせてみせ、ほめてやらねば人は動かじ、という言葉が納得感を持って受け入れられるわけがない。
ある程度の成功体験ができた後は、水平関係に移行するのが望ましいのは、アドラーの言う通りであろう。実際アドラーは、教育とは一人で課題を解決できるようにすることと言っている。大人であればこのような解決能力を自分の力で発達させることはできる。教育がすんだら水平関係にシフトチェンジすべきである。逆にいつまでも教育が完了していないという態度を保つのは縦の関係にこだわっていることに他ならない。あやつなどまだまだヒヨッコよ、ではいつまでも上下関係だ。これが人間関係においてどれほど重大な問題を生みだすものか、いまさら言うまでもないことである。
ほめてはいけないという思想は、これだけが独り歩きすべきではない。論者によって恣意的に使われないよう、注意すべきである。

あらゆる人間関係のトラブルの原因は、他人の課題に土足で踏み込むから。
つまり他人に干渉する本来の目的が自分本位なものだから、トラブルになる。これは厳しい見方だが、大いに同感だ。
この意見は、しばしば、子供の教育にコミットしなくていいのかという誤解を招くのだが、もちろんそうではない。勉強するよう仕向けることと、勉強しないことをなじるのが全く別の事であるということを、言い方を変えて言っているに過ぎないのである。
学生教育に携わる者の端くれとして、このことは深く内省しなくてはならないことだと思う。病院の実務実習指導者が実習生の振る舞いに苦言を呈するのはなぜか?実習生自身が困るというよりも、そのような学生が居るのは教育が足らないせいだと周囲から言われるのが困るから、というのが偽らざる本音なのである。こんな発想の小言などインチキである。

他者に貢献できていると感じることが幸福の真髄。社会的な文脈においては、これは全面的に同意したい。
(個人的な幸福という概念もこの中に入るのかな?おなか一杯ご飯が食べられる幸せ、という概念についてはどう考えれば良いのか。)

共同体感覚という概念は、壊れた石灯籠を見ると、灯篭が痛そう、可哀そうなんてちょっとでも思える人なら、結構感触的にわかるのではないかな。バタフライ効果じゃないけど、ちっぽけな自分の行動が、この広い世界とリンクしているという観念は、自分にとってはなじみにくいものではない。しばしばそう思っている。
ただこれは本書ではなく、アドラー自身がなんて言ってるかを良く調べないと、安直に同意は出来ないかもしれない。

とにかくこの理論は、いいこと言うんだけど、実現が極めて難しい(とアドラー自身も言っている)。世の中を良くするのには、実現性に乏しいこの理論は無力に思える。むしろ良い世の中というものはこのような考え方の人が多い、という方がしっくりくる気さえする。本書では、一人でもこのような考え方で生きなければ多くの人がそうはならない、と言っており、それはそれで正しいだろうが、そう気負っていては生きにくいだろう。
このような人生哲学みたいな領域の思想は、一人で温めるのがいいのかもしれない。こういうことが身についてる人は、やっぱり立派ですよ、生き様が。そしてやたらと他人を教唆しようとしない。しかし、その生き方、行動は、周囲に良い感染をもたらすのである。
ただ、だからと云って本書が無価値であることにはならない。
読者としては、本書を通して、アドラーのこのような考え方を知るだけにとどまらず、深く考察することこそ重要である。読んだことの受け売りでは全く薄っぺらく感じる。この本が言っていることは、心の底では誰しもが思っていることなので、なまなかな考えで人に話すと、そんなこと俺だってわかってら、と反発されるだろう。この考え方を知って、自分はどのように考えるか?これが重要なのである。すべての自己啓発モノに言えることだろう。書籍でもセミナーでも。なんでもだ。
良い事言ってる自己啓発本がこんなにたくさん読まれているのに、世の中特に変っているように思えないのは、大方の読者が読むだけに終わっていて、行動に移すどころか、その言わんとしている哲学を吟味することさえしていないからではないかと思われる。可能なら読者同士で議論するのが望ましいと思う。
もっとも、この本を貸してくれた同僚とは、この本について議論する機会がまだない。やたらと議論を吹っかけるのもけむったいので、そのような流れになった時には、怖がらずに、面倒がらずに、良い議論をしたいものである。





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すらすら読める徒然草 読後感想

中野孝次著、すらすら読める徒然草読了。
同じ著者の方丈記と同様の形式で、古典に親しみながら現代語訳でも意味をかみ締めることが出来るという趣向。ただし徒然草は方丈記よりもずっと大部なので、本書はその一部だけが抜粋されている。また、徒然草は随筆なので、第一段から話題がランダムに提示され、これがまた徒然草の良さなのだが、本書はあえてテーマごとにまとめて配置している。これは著者によれば、徒然草に親しもうとしている初心者に受け入れやすい方法論ということのようだ。今パスカルのパンセを読んでいるが、これも似たような編集がなされている。
徒然草につづられる吉田兼好の哲学はストイックで、著者も指摘するように古代ローマのストア派みたいなところがある。気高く、厳しいのである。自分としては、同感と思うところもあり、そこまで言わなくても・・・と思うところもあり。
読みやすいので、ブツブツ声に出して読んでみた。音読は古典を楽しむ良い方法だというけれど、納得だ。練りに練られた文章というのは、音読することによって頭に入ってくることがある。古典はその傾向が強いかもしれない。

ところで徒然草と直接関係ないことだが、著者の中野氏は、徒然草を筆写するということを敢行し、経験上最良の読書方法だといっていたのが印象に残った。良い方法といわれても乱読派の自分には厳しいことだが・・・
そういえば、中学校の頃のことだが、朝の授業前、掃除とホームルームの間の15分くらいの時間、毎日リンカーンの伝記を少しずつ書き写すという課題が出されたことがあった。この課題を考えたのは学年主任の先生で、当時のことだからお手本も先生の手書きだったと思う。なぜこんな課題に取り組まなければならないのか、不可解に思わない生徒はいなかった。縦書きで、鉛筆で書き写すと手が汚れたものである。それがいやだから最後の行から右に向かって書いてるから全然意味がない、などという生意気者の友人がいたのを覚えている。
あの時、学年主任の先生は何を思って生徒にこういう課題を出したのか、真意は今でもわからない。リンカーンの伝記を良く理解させるためなどとは、到底考えられない。
それとも、書くという動作に精神的な意味があると思っていたのだろうか。キーボードをタイプすることが増えて、肉筆で書くことが少なくなった今日を予期していたとは、まさか考えられないが、しかし字を書くという行為が持っている意味を考えさせられる機会の多い昨今、あの訓練は(もしかすると当時の先生にもはっきり説明できなかったかもしれないが)、大事な意味があったような気がしてならないのである。




韓国とキリスト教 読後感想

浅見雅一、安廷苑 著、『韓国とキリスト教』読了。

韓国で最も信者の多い宗教がキリスト教であることは日本ではあまり知られていない。現職の大統領である朴槿恵、前大統領の李明博もキリスト教徒である。初代大統領の李承晩もそうだ。韓国というと百済、新羅という仏教伝来のイメージが強いが、18世紀後半に中国を経由して入ってきたキリスト教は、特異な経過をたどって根を下ろし、プロテスタント、カトリックを合わせると、今や全人口の3割近くがキリスト教徒なのである。これを聞いただけでも驚きだ。日本にはこうした情報はほとんど入ってきていない。

韓国はもともと先祖崇拝とシャーマニズムの国である。これは日本と同じ。キリスト教の信仰対象は主、カミサマだけであるが、シャーマニズムと混交した結果、主の言葉を伝える牧師にカリスマが定着するようになったらしい。受容初期には西欧の聖職者による布教ではなく、中国から入ってきた学問として(西学と呼んだ)知識層が広めていったが、このような世界的に見ても特異な経緯のために、韓国は独自のキリスト教のあり方を発達させることになったようだ。これが18世紀から19世紀にかけて。日本は大航海時代にキリスト教が伝えられたが、韓国は帝国主義時代に伝道されたわけである。近代欧米諸国とのコンタクトは、宗教の伝道の様式においては、様々な点で影響したであろう。

ところで、日本でキリスト教の布教が始まったとき、改宗した信者らは、キリスト教に出会う前に死んだ先祖たちは救済されないことを聞かされ悲しんだ。そのため、日本では先祖崇拝もやや緩和された形で認められたという。ダンテの『神曲・地獄篇』のはじめのほうにある、キリスト教伝来以前のギリシャ・ローマの哲学者たちが地獄の第一圏にいるという話を思い出した。ダンテもこれには苦慮したようだが、ヨーロッパ人にとっても、キリスト教は外来宗教だったのだ。長年独自の歴史を築いてきた社会に、外来の着想を信条として受け入れるということ事態、ひずみを生じることなのである。
韓国でもキリスト教の排斥が起こり、多くの信者が殉教を遂げた。この際、海外から渡航してきた牧師たちも殉教したことが、帝国主義の世にあって西欧の思想を受容するという心理的な葛藤を払いのける役割を果たしたようである。

意外なことに、韓国でキリスト教徒の増加が目立つようになったのはわりと最近のことで、1970~80年代に爆発的に信者が増えた。これは受容とはまた違った面に原因が求められるようである。現代は、宗派としてはプロテスタントが多く、教会が個別に活動するため(これがプロテスタントの特徴)、信者は自分の考え方に合った教会や牧師を求めて教会を探し、所属するようになる。その結果地域に根差した宗教活動は弱くなりがちで、人気の教会は大勢の信者を抱えるメガチャーチとなる。世界最大の所属信者を有するメガチャーチはソウルにあり、その信者は実に75万人。特に信仰する宗教を持たない自分には想像しがたい。信者が増えれば献金が増える。プロテスタント系の教会は収支会計を明らかにしないところも多く、その行く先は・・・推して知るべし(^^;;;)。

以上のように、この本は、韓国(朝鮮)が、いかにしてキリスト教を受容してきたか、そして現在どのような問題を抱えているかについて、極めて公平な立場から解説している。一般大衆へのハングル文字の普及をはじめ、キリスト教が韓国社会に多大な貢献をしてきたことは言うまでもないが、一方でメガチャーチの担任牧師の世襲問題(プロテスタントの聖職者は子供を作ってもいいからね)、目的が自国内へのアピールに転化してしまった感のある海外布教、地域住民との軋轢、カルトの潜伏などなど、大きな問題を抱えているのも事実である。昨今では国民の韓国キリスト教に対するまなざしは厳しいものになってきているという。

宗教はデリケートな問題で、家族くらいしか、なかなか話し合う相手がいない。職場でこんな話をすると、なんか宗教やってるとかいう面倒な誤解を招くのではと、誰しもが警戒しているのではないだろうか。
韓国については特に思うところがあるわけではないが、こんな問題を抱えているということを知らなかったのと、日本ではほとんど知られていないこの現状、これでいいのかという思いと、いろいろ考えさせられた。





ことばの歳時記 読後感想

金田一春彦 著、『ことばの歳時記』読了。昭和40年が初版とのことである。もともと新聞のコラムとして連載されたもので、著名な国語学者の深い知識に触れ、日本語の面白さを堪能できる。と同時に、そうだったのか!と初めて知る事柄も多く、実に面白かった。こういうのは気に入ったのはメモしたり、ノートとっておかないとダメなんだね。せっかく面白く読んだのにすぐ忘れちゃう。
今ざっと読み返して気になったことをいくつか。

・万歳という言葉は明治22年に憲法発布の式典が東大で(?)行われたときに東大総長が思いついて口にしたのが最初。
・谷という字がつく地名は、関東では「ヤ」と読み、関西は「タニ」と読むものがほとんど。
・おでんという言葉は、田楽の楽が略されて、頭に「お」をつけたもの。おでんの語源って田楽なのか!
・西行の歌に「津の国の鼓の滝を打ち見れば岸辺に咲けるタンポポの花」とある。タンポポという呼び名は平安時代にさかのぼる。ほんとかよ!!
・食器のおたまじゃくしの語源は、滋賀県の多賀神社でお守りとして売っていたという杓子から。これを人呼んでお多賀じゃくし。それがなまっておたまじゃくしという。カエルの子はそれに形が似ているのでおたまじゃくしと呼ばれている。

全編が全てこれではないが、日頃何気なく発している言葉って、こんなに面白いことを背景に持っていたのかと、とても勉強になった。語源とか由来とかに興味のある人ならきっと面白く読めるだろう。
また、今日は~の日、というのも多い。さすが日刊紙のコラムだ。これがまた面白い。NHKの朝のラジオで「今日は何の日」というコーナーがあるが、それを思い出した。



F1中国GP感想

ニコ・ロズベルグの楽勝で終わった中国GP。ニコだけバトルやトラブルとほぼ無縁だったので、終わってみれば楽勝でしたが、どうもニコだとそのままフィニッシュできるか安心できないんだよねえ。ハミが近くにいたらどうだったか・・・開幕3連勝してチャンピオンにならなかった人はいないそうですが、これもニコだと安心できない。つか、ハミが相手だから全くもって安心できない(^^;;;)。あのデイモン・ヒルもチャンピオン取れたわけだけど、ジャック・ビルヌーブと今のハミルトンでは、どう考えてもハミのほうが手強い気がしますがな。ニコ様がんばれ~~~!

今回も2位以下はバトルだらけで面白いレースだったと思いました。やっぱり使えるタイヤの種類が増えたのは大きいですよ。
レッドブル侮れないですね。リカルドは不運でしたが、後輪バーストで4位は大健闘でした。セーフティカーが出たことでリカバリーできたという面もありますが、あれがなければクビアトと一緒に表彰台だったかも。
一方のクビアトはラッキーでしたね。ベッテルがよけられたから良かったけど、ぶつかっていれば1週目で終わっていても不思議ではなかったもんね。後ろからもクルマ来てたし。レース後のベッテルとクビアトの会話が国際映像で流れてましたが、今までになくクリアーに声を拾っていたような気がしません?こういうドライバー同士の口論は昔からあったと思いますが、視聴者の目に触れるのは珍しいですよね。興味深かったワー。

ライコネンもハミルトンも1週目の事故からオーバーテイクしまくって上位フィニッシュは立派でした。スーパーソフトを1周だけ走って捨てる戦略をとっさに考え付くメルセデスすごい!ハミはほとんど最後尾から表彰台に乗ったこともあるので、もっとリカルドまで近づくかと思いましたが、さすがにマシンにもダメージを負ってしまった今回は神通力も効かなかったか。ライコネンも17位から優勝したことのある猛者ですが、この人たちは後方から鬼のように追い上げるレースの方がワクワクするよね。

それにしてもスタート直後に接触が複数あったにもかかわらず全車完走というのは意外でした。ハースのグロージャンも今回はウィングを壊してしまって後方に沈んでしまい、ぱっとしなかったですね。ひそかに応援しているマノーのウェーレインはドサクサ紛れとはいえ一時4位を走行。全車完走の中でビリじゃなかったのは、今年のマノーはそれなりの戦闘力があるってことでしょう。予選も最下位じゃないし、決して遅くないぞ。ルノーとザウバーがぐずぐずしている今がチャンスだね。そういえばマノーのノーズコーンの形状は、流行の鼻ヅラノーズではなく、コンサバティブなウェッジシェイプ。今年のマシンの中で一番カッコいいと思います。

マクラーレンは惜しかった。Q2でインドのタイヤが外れるというありえないトラブルが起こらなければQ3行けたでしょうからね~~。例の今年の予選形式だとQ3は8台なんだけど、中国からは去年と同じになって上位10台でQ3だったから、それなら行けた可能性は高かったんじゃないですか。レースはミディアムタイヤで2ストップという作戦がうまくいかなかったけど、間違いなくインプルーブしてる!中盤戦以降のヨーロッパラウンドは楽しみですね。しかし色といい形といい、どうしてもカッコいいクルマに見えないんだよな~~。そこが残念。

今年のF1マシンはどれもあんまりかっこよくなくてクサクサしてましたが、しいて言うならメルセデスはましなほうですね。楕円横型のインダクションポッドは気に入らないけど、もしニコのチャンピオンカーになったら作りたいな。スタジオでもいいから(^^;;)。1/20がいいですね。1/43はペトロナスのグラデーションとか、デカールがイマイチなことが多いし。

次はロシア。タイヤ選択肢はあんまり関係なさそうだけど、今週のソチは気温9度だって!これは去年と全然違うゾ。別の意味で楽しみですよ。
しかし2週間おきにF1見られるのはいいねえ。レースが増えて大変だろうけど、私は毎年20戦くらい見たいです。





疫病と世界史 読後感想

ウィリアム・H. マクニール著、疫病と世界史読了。やや読みにくい長文が多く読み終えるのに時間がかかったが、卓越した歴史学者の極めて広壮な人類史に触れることができて良かった。

本書の特徴は微生物が人間に寄生するミクロ寄生と、少数の権力者が大多数の庶民にたかるマクロ寄生という概念であると思われる。疾病(感染症というべきだ)はいかに人類に深刻な影響を与えようとも、偶然性が高いと考えられたのか、歴史家たちの関心を呼んでこなかったようであるが、もっと強く認識されてしかるべきであろう。微生物がその生存のために人間を食するミクロ寄生は理解しやすいが、社会の支配者が被支配者に寄生するマクロ寄生と、いかに多くの共通項を持っているか。この指摘が興味深い。
微生物は、寄生する宿主が死滅してしまえば自身も死滅してしまう。マクロ寄生的視点でこのことを見直すと、支配層の搾取が行き過ぎれば庶民は疲弊し、いずれ搾取できなくなって支配層も健全さを失う、ということになる。ローマ帝国に見られた現象である。不気味なまでの一致である。
南米大陸にスペインが侵入した時、ペルーやメキシコには数千万人のインディオがすでに存在しており、わずか数十人のヨーロッパ人でそれを服従させることができたのはスペイン人が持ち込んだ天然痘のせいであるとされている。インディオには天然痘に対する免疫がなかったから、すさまじい勢いでインディオは斃れていったのだ。いわば自滅である。これを目の当たりにしたスペイン人たちは、勝利したと喜ぶより、困惑したというのが正直なところではないか。これから自分たちに都合よく支配しようと思っていた者たちがどんどん死んでいく。先ほどのマクロ寄生の理論では、これではスペイン人自身も共倒れしてしまう。絶滅に追いやるほどインディオを痛めつければそこから搾り取れるものは少なくなるのだ。これではスペイン人にとってもおいしくないのである。当時のスペイン人たちはこれを十分認識していたと思われる。このような見方は、自分がこれまで見聞きしてきたピサロやコルテスの姿の印象とちょっと違う。

本書はペスト、発疹チフス、コレラなどなど、致死性の高い疫病と人類の歴史との関係を実に説得力に富む筆致で述べている。むろんこれまで注目が少なかったせいで理論を証明するための資料に乏しい(あるいは皆無な)ことも多く、著者マクニールの推論によるところも多い。著者も本文中で述べているように、アプリオリに断定されているところは、人によっては気に入らないかもしれないが、それでもその弱点を補って余りある説得力と合理性がある。同じマクニールの「世界史」も読んだが、人類全体の歴史を俯瞰する観点が大変勉強になった。エピソードや偉人・文化も歴史を学ぶ醍醐味だが、歴史の流れというものに目を向けたとき、マクニールのような大局的な、全地球的な把握の仕方は、歴史を学ぶ本質を教えてくれるように思う。

本書を読んで初めて知ったこと。
・ペストは20世紀初頭に満州で流行したことがある。ヨーロッパだけでなく、世界各地で(イスラム世界でも)流行をおこしてきた。
・日本の歴史と疫病を関連付けた先駆的な研究がある。富士川游著、日本疾病史。今度読んでみよう。
・モンゴルが中国から撤退するきっかけになったのは、中央アジアを高速で移動できて、ペスト等に侵された小集団が死滅する前に新たな人口密集地に移動することができてしまったのが一因かもしれない。
・中世ヨーロッパのペスト流行では、聖職者も民衆も無差別に死亡した。このためカトリック教会への信頼がゆらぎ、宗教改革を生んだ。一方疫病で死ぬのは神のおぼしめしと考えたイスラム世界は、ヨーロッパで発生した予防医学の概念に懐疑的だった。
・インディオは、侵略者であるスペイン人は死なず、自分たちだけが疫病で死んでいく様を見て、自分たちの信じる神が、キリスト教の神に敗れたと思った。これが、南米でカトリックが完璧に根付いた理由の一つと思われる。もっともキリスト教に改宗しても、天然痘や黄熱病は何度もインディオを襲ったため、インディオ達は生きる気力を失っていっただろう。
・疫病は都会病ともいえる。微生物は人口が密集していなければ新たな宿主を簡単に得られないので、集落がまばらで人口が少なかったところでは終息も早かった。その代り一村が全滅して終息することもあったと思われる。
・一世代の間に流行が繰り返されると、その流行を生き延びた者たちで社会が形成されるようになり、その疫病に罹患するのは、かかった経験のない子供たちだけになる。したがってはるかな昔から存在した疫病は、人類との共生を確立した結果、次第に小児病になっていった。
・種痘が行われるようになった頃、疫病の原因は微生物説と瘴気説とに分かれていた。瘴気説は優勢で、種痘はなかなか広まらなかった。種痘はジェンナーが発見する以前からトルコやアジアで行われていた。それは天然痘発症者の膿を用いるものであった。
・ビタミンC不足の壊血病は柑橘類を摂取することで防げるが、それが科学的に証明されるまでは多くの間違いが積み重ねられた(英海軍は船員にライムジュースを飲むことを徹底したが、ライムジュースにはビタミンCがあまり入っていなかった。しかし入手しやすく安価だったのでなかなか改められなかった)。

などなど。やっぱりエピソードも面白いから頭に残っちゃうね。




医療における人間学の探究(ゆみる出版) 読後感想

山本和利著、医療における人間学の探究、読了。
この本は1999年に刊行され、学会か何かで購入したんだと思うが、読もう読もうと思いつつ今日までずるずると引き延ばしてしまったのが恥ずかしい。
しかしこの本もまた、若いころに読むよりも、今読むのが自分にはふさわしかったのかもしれない。薬剤師という自分の職業とも直接関係している内容なので、思うところ多かった。
総合診療というのは非常に間口の広い、伝統的な意味での医療のことである。著者も述べるように、決してあらゆる方面の専門医療を行えるスーパードクターのことではない。
医療はかつて、あらゆる病気を診るのが当たり前であった。専門領域に特化するようになったのは、医療の組織化が発達した西洋のやり方を導入したことと関係が深い。専門領域に特化しすぎた結果、眼科医や整形外科医は内臓のことには興味がない、などと陰口をたたかれても反論しがたいぐらいに自らの得意分野にこもりきる医師が増えた。このことは、人間を精密機械のごとく解釈し、ともすれば医療行為の有すべき人間性というものをどう考えているのか疑問に思えるような医療者がいることと無関係ではないのである。彼らは"人体の一部"の専門家であり、それ以外は自分と無関係だと思っているかのように、しばしばふるまう。薬剤師も然り。医師に続いて専門分化が進みつつあるだけでなく、協働するチームの中で、"それは自分らの仕事ではない"と言い放つような態度を示す者がいることに、強い懸念を感じている。

専門家はデータを集めることを、自分でも気づかぬうちに過剰に重視する偏向的な態度に陥いることがある。患者のためではなく、学会発表するためのデータ集めになってはいまいか。著者は、その研究はたとえ直ちに治療に直結しなくとも、いつか何かの形で社会に貢献するはずだと信じこんでいると批判する。さらりとひとことだけであったが、実に耳の痛い言葉だった。学生時代の動物実験が思い出される。動物の命と引き換えに得られたデータはいったいこの世でなんの役に立ったというのか。
ふと、ニュートリノの研究でノーベル賞を受賞した小柴昌俊教授の逸話を思い出した。「なんの役に立つんだかわからない、知的興味を満足させるための仕事をやらせてもらえてることに感謝しなければ」といったような意味のことを学生に話していたそうである。ニュートリノが我々の生活にどう役に立つのか、説明することは非常に難しいだろう。しかし何かの形では貢献するであろうことは疑いない。我々医療者が行う研究が、社会にどう貢献すると思われるかを説明することは、ニュートリノのそれよりもはるかにたやすいであろう。しかし、しばしば我々は、本当に患者のためを思っているのかと、電撃のような痛烈な批判を浴びるのである。

人体を機械のようにみなす考え方は、合理的に説明できない事象に出会ったとき、混乱する。結局、「わからん・・・」と、その場はやり過ごすほかないのであるが、著者はそこに思考の限界があることを指摘する。
患者は一人で生きているのではない。ある疾患を発症したとしても、環境や社会がそれに寄与していることは十分予想しなければならず、時としてその方が患者の個人的特質よりも本質を占めていることさえありうるのである。3分診療と揶揄されるような外来診療では、そのような広い視野に立って考察するのが困難なのも無理はない。いや、この矛盾に気づきつつも、どうしようもできないと嘆息する医師は少なくないだろう。
どうにも説明がつかない患者の訴えや症状に出くわすことはまれではないが、自分が近視眼なせいでその本質を見つけ損ねているのだとしたら?それも医学知識ではなく、人間性の意味で視野狭窄に陥っているせいだとしたら?端くれとはいえ医療従事者を名乗る者として、寒気がする思いである。

これらのことは、いまさら思うまでもなく、様々な場面で見聞を重ね、胸に積もっていたことである。本書を読んでその思いを新たにしたという次第だ。今日も、外来で医師が話を聞いてくれない、説明をメモしようとすると怒られた、あの先生にはもうかかりたくない、といったクレームを受けた話を聞いた。このようなトラブルは時々おこる。接遇態度を向上させる特効薬のような施策はないが、しかたがないと云って感受性を鈍らせて良いはずがない問題なのである・・・





誰もがその先を聞きたくなる地理の話大全 読後感想

誰もがその先を聞きたくなる地理の話大全、読了(ほんとはちょっと前だけど)。
この本はいわゆる雑学本である。
どの項も興味深いことばかり。前半は海外、後半は日本のジオグラフィーにまつわるエピソードが紹介されている。
私もご多分にもれず雑学大好きなタチなので、大いに楽しめた。雑学は知ったその時はヘェ~と思うけど、すぐ忘れてしまうのが難点。また折を見てぱらぱらめくりなおそうと思う。

地理の話とはいえ、その土地、地方のエピソードとなると、歴史とも深いかかわりを持つようになる。歴史というとつい史上名高い人物を思い浮かべがちだが、彼らが生きた、活躍した証が、土地に逸話として残り、それを今に伝えているのである。この歴史を見る観点の重層性は、なかなか興味深い。今ちょうど、疾病と世界史というのを読んでいる。これはその名の通り疾病の面から人類の発展過程を見つめなおそうという視点で書かれたものであり、地政学ともまた微妙に違う面白い観点なのである。
大学や高校を受験する際、歴史や地理、倫理といった分け方をして、それぞれをまったく独立して勉強する時期がある。これは実にもったいないことをしていると思う。この3つはどれも人間の生き様と密接にかかわっているのである。歴史だけ勉強しているように見えて、実は地政学も、そしてその時代を風靡した哲学も、同時に学んでいるはずであり、それを意識してこそ、先人たちの残したものを学ぶという謙虚な行為が、学習者の人生にとって意義深いものとなるのではないか。


F1 バーレーンGP感想

今期のF1第2戦バーレーンGPを視聴。スタートでハミルトンがまたしてもミスったせいで、ニコが楽勝。このままいくわけないとは思いつつも、今年はひいきのニコにチャンピオンを取って欲しいなぁ。
首位争いは無風でしたが、それ以外のポジションでバトル満載。面白いレースでしたね。
ハースの5位は立派の一言。開幕戦と違ってラッキー要素のない実力での5位だもんね。まあ上位陣の中でベッテルがいなかったけど、仮にいたとしても6位だろうし。いや~ハース熱いです。グロージャンも熱いです!
ハースの健闘の一番の理由は、スーパーソフト3連発という極端な戦略が車体特性とマッチしたからでしょう。タイヤの使い方に幅ができたのは今年一番良かった規則変更じゃないかな。オーストラリアもそうだったけど、確かに今年のレースのタイヤ戦略は面白いです。
あと、ウェーレインとバンドーンが良かったね。ウェーレインはマノーのマシンで立派にバトルしてたし、バンドーンはF1GP初体験にもかかわらず急遽参戦というハンデを跳ね除けて10位入賞。たいしたもんです。
バーレーンGPはほんと面白いレースでしたわ。次の中国も楽しみだ!

すらすら読める方丈記 読後感想

中野孝次著 すらすら読める方丈記、読了。
方丈記は言わずと知れた鴨長明の著した随筆。日本の誇るべき古典であり、ゆく川の流れは絶えずして・・・の冒頭部分は良く知られた名文だ。ここ数年読書の興味は西洋の古典が中心で、有名どころを乱読してきたが、昨年あたりから日本の古典にも興味がわいてきたのである。当然ながら現代語訳を読むわけだが、方丈記ともなると色々出版されている。その中でちょっと異色なこの本を見つけた。原文に総ルビがついて掲載され、もちろん現代語訳もあり、そのうえ著者の解説がつく。原文も非常に味わい深いのだが、平易な言葉で書かれた著者の解説が実に良かった。一部個人的にムッとする記述もあるものの(戦後直後の農家への恨みとか)、全編にしみわたる著者の深い教養が示してくれる説明によって、鴨長明という哲学者が表明する思索を俯瞰的に見ることができる。いにしえの知恵とはとうてい思えぬ普遍性を味わうことができた幸甚は、この解説に由るところ大である。思想家をつまみ食いする自称哲学者の自分には、とても面白かった。

方丈記本編は要約すると、人間起きて半畳寝て一畳、身の丈に合った生き方のなんと健やかなことよ。この世界は心の持ち方ひとつ(それ、三界はただ心一つなり)。たとえ住まいは狭くとも、この根城の心地よさを我がほかに誰ぞわからん。老い先短くなって今、自分はようやくこの満足な境地を得た・・・という感じだろうか。まことにうらやむべき自己肯定である。日頃ヨンサンを作っていて、決して名作を生み出したわけではないが、自分の良しとした行為(工作)の結晶たる作品を満足したまなざしで見つめる楽しさを思うと、このすがすがしい悟りきった自己肯定は共感できる。こんなんで理解したつもりになるのは恥ずかしい気もするが、でも読んでいて素直に思いついたのがそれであった。
さらに共感できるのが、「もし、念仏ものうく、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづから怠る。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし」。作りたい気分じゃないときは作らなくてもよい。せかす人などいない。誰に恥じることもない。なんという自然体。
そしてさらにさらに、「芸はこれ拙けれども、人の耳を喜ばしめんとにはあらず。独り調べ、独り詠じて、みづから情をやしなふばかりなり」。これぞ数寄の極意である。模型趣味人のためにあるような言葉ではあるまいか!
トドメは「われ今、身のために結べり。人の為に造らず」。よくぞ言ってくれました!まぁ誰かのために作ったりなんてハナからしてませんけどね(^^;;)
ソコはいくら自分の気持ちが本位であるといっても、他人に指差されるようなことはもちろん埒外で、そうではない自分だけの世界で自分を解放する・・・こと。これが自由自在にできたなら、そりゃあ心健やかでしょうな。いやはや、こうありたいもんです。

もちろん長明のこの精神が示すのは、趣味に対する向き合い方だけではない。その精神は、人生そのもののあり方を照らすものである。自分の是とするものを見つめつつ、それにこだわりすぎない大局的な視野を同時にもつこと。この両者は時に相反して心を悩ませるが、それに適当に折り合いをつけることを、何とかして習得すれば良いのだ。だがそれは、簡単には習得し得ない。この折り合いをつけるのは、日和見主義でその場に合わせてのらくら生きるのとは根本的に違う。苦労に苦労を重ねて悩んだ末にたどりついたのがこの境地、というものでなくてはならないであろう。長明もそのような苦難を経た末に、この方丈記に著したような精神を得たのだから。
世にしたがへば身くるし。したがはねば狂せるに似たり。漱石はこう言う。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。このようなジレンマを越えたところに、悩みぬいた各人の各様なる、方丈記的精神が見出されるのかもしれない。

翻って、わが身はどうか。


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主にヨンサンを中心に作っています。作ったり作らなかったり、はなはだ不安定な模型ライフですが(^^;;)

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