プロタゴラス 読了

プラトン 著、中澤務 訳、『プロタゴラス-あるソフィストとの対話』(光文社古典新訳文庫)読了。

光文社の古典新訳文庫のシリーズ、読みやすくて気に入っている。

アレテーは教えることが可能なのかを究極の命題に据えて、おなじみのソクラテスと、当時のソフィストの大家プロタゴラスが議論を展開する、プラトン対話篇の初期作品。これまでに読んだプラトンの対話篇に比べて、論敵のプロタゴラスの言い分がとても常識的で、訳者の解説のようにソフィストが教育を売り物にしているという胡散臭さについての予備知識がないと、ソクラテスの方が屁理屈を言っているように見えるというのが難しい。プロタゴラスの言うことももっともなところがあり、それに対するソクラテスの論駁に追随するのは、ソクラテスの方が正しくないとおかしいというバイアスで無理やりそう見ているのではないか?と批判的に振り返りつつ、読み進めていかねばならない・・・気がする。ある意味読者の知的求道心が試される作品だと思った。

アレテーとは、物が内的に有している優れた特性のこと。ナイフであればよく切れること、馬であれば速く走ることなどがアレテーである。ソフィストはアレテーについて教育してお代をもらおうという啓蒙的教師である。
では人間のアレテーとは何か。それがわかればアレテーを教えることの可否判断が可能と思われ、本書の後半はこの議論に集中される。結論としては、人間のアレテーとは知識である、というものになるのだが、この結論は、プロタゴラスが述べるアレテーの認識の矛盾を明らかにはしたものの、知識であれば教育することはできるはずなので、教えることはできないというソクラテスの立場もまた否定されることになる。これは、今までの議論のどこかに破たんがあるのか、それとも本質的にそういうものなのか、本書が完結してもその謎が残り、読者は各自このことを考え込むことになる。






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変見自在 偉人リンカーンは奴隷好き

高山正之 著、『変見自在 偉人リンカーンは奴隷好き』(新潮文庫)読了。

久しぶりに毒書してしまった・・・胸が悪くなるけど、時にはこういうのも大事だね。
書名につられて買ったけど、リンカーンのことだけ書いてある本ではなかった。
でも別の意味で、新たな本と出会った感じ。



情報を活かす力 読了

池上彰 著、『情報を活かす力』(PHPビジネス新書)読了。

ビルマの竪琴 読了

竹山道雄 著、『ビルマの竪琴』(偕成社文庫)読了。

パウロ 十字架の使徒 読了

青野太潮 著、『パウロ 十字架の使徒』(岩波新書)読了。






日本人だけが知らない「本当の世界史」 読了

倉山満 著、『日本人だけが知らない「本当の世界史」』PHP文庫読了。

ちょっと眉をひそめたくなるようなときもあるが、これこそ真実を言い当てている証拠かもしれない。
いろいろなことを知りたくなる、刺激的な本だった。
とりあえずリンカーンの当時の社会的位置づけを客観的に分析した本を読みたい。




ひねくれ一茶 読後感想

田辺聖子 著、『ひねくれ一茶』 講談社文庫読了




大学・中庸 読後感想

金谷治 訳注、『大学・中庸』 岩波文庫読了。

清貧の思想 読後感想

中野孝次 著、『清貧の思想』 文春文庫読了。

ユダとは誰か 読後感想

荒井献 著、『ユダとは誰か 原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ』 講談社学術文庫読了。

ユダの福音書はキリスト教の新約聖書外典の一つで、その存在は古くから知られていたのだが、現物や写本は長い間見つかっていなかった。しかし2006年に、1970年代にエジプトで発見されたパピルスが、コプト語で書かれたそれであることが発表され、この魅力的な題名の外典は、約2000年もの時を経てようやく我々の前に姿を現したのである。

ユダとは、イエスを裏切ってローマ帝国に売り渡した、キリスト教における最大の悪人であるが、ユダの福音書は、彼こそがキリストの真意を伝えられた特別な弟子であったと主張する。これだけを聞くと、歴史ミステリーのようで、大変興奮させられるのだが、かつてこのような考え方が存在したことは、歴史的には古くから明らかにされている。古代ローマ時代に形成されつつあった原始キリスト教は、イエスという存在をどう考えるかなどの神学的論争真っ盛りで、その闘いに勝ち抜いたのが今のカトリックであり、東方正教会なのである。論争に敗れた派閥は、主流派から異端と呼ばれ、排斥された。長いキリスト教の歴史における最大の異端は紀元1世紀ごろに興ったグノーシス派で、ユダの福音書はその出自ではないかといわれている。

グノーシス主義というのは、ひとことで言えば物質と霊の二元論を主軸とした世界観をもつ考え方で、要するにこの世は良い神様と悪い神様の果てしないバトルでできているというものである。神様はただ一つという絶対的一神教よりも、我々日本人にとっては理解しやすい気もするのだが、とにかくこの考え方はキリスト教的には異端なのである。

ユダの福音書からは、この世の目に見える物質を想像した創造神と、その母体ともいえる至高神との対立の図式がうかがえ、これはグノーシス派による世界創造神話の上に構築されていることを意味している。ユダの福音書では、ペトロをはじめとするイエスの弟子たちは、至高神の神性に向き合わず、自分たちで勝手に神を作り出してそれを奉じていると、イエスからは嘲笑される。これに対し、イエスが至高神のいますところからやってきたと知るユダは、真実を授けられるに値する者としてイエスに選ばれる。つまり、天にまします父(至高神)による人類救済計画の完遂のための、イエスが肉体を捨て去るという重要イベントである磔刑の引き金を引く者として指名されたと、こう考える。グノーシスの神学は、創造神を悪い神、至高神を良い神として、この2つの神が対立するという図式なわけである。

ユダを除くイエスの弟子たちは創造神を崇めているが、これは彼らの系譜上にある原始キリスト教会主流派を批判する意味もあるので、ユダの福音書の著者の立場は、主流派に反対するものだったことがわかる。キリスト教はなぜ、教義論争が非常に盛んなのか。自分はこの点にとても興味がある。この点で本書は明快な回答を与えてくれるわけではなかったが、とても面白く、知的満足感を得ることができた。ただ、グノーシスについて予備知識がないと、読み続けるのはかなり苦しい本だと思う。

また、常々感じることだが、正統派から異端と呼ばれる者の中にこそ、真実があるのではないかということが気にかかる。これは宗教に限らず、人間社会のあらゆるところに顔を出すことだ。出る杭は打たれるという言葉は、異端を誅する主流派を、遠巻きに見る隠れ主流派の言葉だと思うが、どうであろうか。暗い気持ちになる。

なお、本書はユダの福音書という題名だが、他の福音書は正確にはマルコ『による』福音書と読み、本書の原文はユダ『による』福音書とは読めないのだという。そしてもとはギリシャ語で書かれ、それがコプト語に翻訳されたものであるらしい。ギリシャ語で福音書と福音は同語であるから、本当はこの書物は『ユダの福音』と読むべきかもしれないとのことである。これは大変説得力のある説ではなかろうか。



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Author:カトリーヌ
主にヨンサンを中心に作っています。作ったり作らなかったり、はなはだ不安定な模型ライフですが(^^;;)

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